我々が考えるように
ヴァネヴァー・ブッシュ
1945年7月1日

 科学者は、この戦争に個人として関わったのではなかった。 つまり、この戦争は、すべての科学者がその一部を担った戦争であった。 科学者は共通の目的のために、これまでの専門家同士の競合をやめ、 多くを分かちあい数多くのことを学んだ。 戦時下で協力しあって働くことで、志気は高められた。 今や多くの人々にとっては、これは終りに近づいているようだ。 科学者は、次に何をすればよいのであろうか。
 生物学者にとっては、特に医学の研究者にとっては、あまり戸惑うことはなかろう。 なぜなら戦時中の任務は、従来の方針を捨てる必要がそれほどはないものだったからである。 実際に大勢の学者が、住み慣れた実験室で、そのまま戦時下の研究を行なうことができた。 研究目的は、ほとんど変わることはなかったのである。
 最も激しくふり回されてきたのは物理学者である。 見慣れぬ破壊装置を作るために学術研究を断念させられ、思いもよらなかった課題のために新しい方法を考案しなければならなかった。 敵を撃退するための装置の開発に自らの任務を果たしてきた。 同盟国の物理学者と協力して働き、課題をなしとげる喜びを実感してきた。 そして、偉大な一つのチームの一員であった。 平和が近づきつつある現在、彼らは、全力を傾ける価値のあるものをどこで見出せばよいのであろうか。

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 科学を利用し、また研究によって生み出された新しい機器を利用することによって、人間はこれまでどのような恩恵を受けてきたのだろうか。 第一に、人間は、科学によって物を支配する力を拡大してきた。 衣食住を改善した。 つまり、ますます安全になり、生存するための極限状態から多少は解放された。 人間自身の生物学的作用に関する知識がふえた結果、次第に病気で悩まされなくなり、寿命は延びている。 生理的機能と心理的機能の相互作用が解明され、心の健康が増進する兆しがある。
 科学によって、ひとりひとりの間のコミュニケーションは迅速に行なえるようになった。 そして、様々なアイデアが記録されるようになり、人間がその記録を上手に処理したり、抜き出したりできるようになった結果、知識は個人を越えて人類が続く限り発展し、受け継がれていくようになった。
 研究の蓄積は、ますます増大している。 しかし、専門化が進むにつれて、我々はもはや身動きできなくなりつつあることが、次第に明らかになってきた。 研究者は、他の数多くの研究者の発見したものやその成果を前にしてたじろいでいる。 研究者は、こうしたものを記憶に留めるどころか、その内容を知る時間さえもなくなっている。 進歩していくためには、ますます専門化が必要とされているが、これに対して学問分野間に橋わたしをしようとする努力は、取るに足らないものでしかない。
 研究成果を伝達し、評価するために我々が使っている専門的な方法は、何世代も以前のものであり、その本来の目的からみて、現在では完全に適さないものになっている。 学術論文を書くのに費やしている多くの時間と、書かれたものを読む時間を計ってみたら、これらの差は驚くほどのものになろう。 限られた分野においてさえ、継続して徹底的に読むことによって最新の知見に遅れまいと良心的に試みている人々でも、前の月の労力のうち、どれだけの量が生産するために役立ったかを示すよう求める調査には、しりごみするであろう。 メンデルの遺伝法則は、これを理解して発展させることのできる少数の人々の手元にこの論文が届かなかったため、30年もの間、世界から取り残されていた。 つまり本当に重要な成果が大多数の取るに足らぬものの中で失われてしまうために、この種の悲劇は、我々の周囲の至る所で飽くこともなく繰り返されている。
 現時点で関心を持たれているものの範囲が広がり、多様化して、出版物が過剰になったことが問題なのではなく、実際に記録を使いこなす我々の能力をはるかに越えて出版物が増大していることが問題であろう。 人間の体験の総和は驚異的な割合で拡大しつつあるのに、その時々の重要な事柄に至る、結果的に迷路のようになっている道筋をたどるために使っているのは、帆船の時代と変わりのない手段なのである。
 しかし、新しくて強力な機器を用いるという変化の兆候がみられる。 肉眼のような感覚で物を見ることができる光電管、見えるもの、あるいは見えないものさえも記録できる改良の進んだ写真技術、蚊が羽を振るわすよりもわずかな力を伝えるだけで大きな力の調節ができる熱イオン管、相対的には100万分の1秒でも長く思えるほどわずかな間に起こったことを映し出す陰極線管、あらゆる交換手よりも確実で、かつ何千倍も速く、連続した複雑な操作をなしとげることができる電話交換機などのように、科学の記録に変化をもたらす多数の補助機器がある。
 二世紀前、ライプニッツは、最新のキーボードの付いた計算機械を発明した。 しかし、その当時、使用されるまでには至らなかった。 当時の経済的な状況がこれを許さなかったからである。 すなわち大量生産時代以前には、これを組み立てるための労力は、これを利用して節約できる労力を上まわっていたのである。 というのは、この機械にできることはすベて紙と鉛筆を使えば事足りたからである。 さらに、故障しやすく、信頼性に乏しかった。 この時代とこれ以後のかなりの間、複雑であることは、すなわち信頼性に乏しいことであった。
 バベッジは、その時代としては驚くほど豊かな支援を受けたにもかかわらず、自分の考えた大きな計算機械を作れなかった。 理論的には十分完成されたものであったが、組み立てて維持していくための費用は、当時にしてみればあまりに莫大であった。 もしも詳しく記載された自動車の設計図を与えられたファラオが、これを完全に理解したとしても、一台の車の幾千もの部品を作るためには、王国の財源に重い負担をかけることになり、しかもその車はギゼヘの最初のドライブで壊れてしまったであろう。
 今では、交換できる部品からなる機械は、労力を大幅に節約して組み立てることができる。 かなり複雑であっても、これらは信頼性が高い。 これは、たとえばタイプライター、映画用カメラ、また自動車をみればわかることである。 電気の接触端子は、その性質が完全に理解されると、差し込まなくてもよくなった。 自動電話交換器をみれば、数十万のこうした接触端子を備えており、信頼性が高いことがわかる。 薄いガラスの容器の中の蜘蛛の巣状の金属と、明るい白色光を帯びるまで熱せられる電線とからなるラジオの真空管は、数億個も作られており、これらの真空管は、箱に入れられてソケットにつながれると音を出しはじめる。 この薄くて軽い部品は、ラジオを組み立てる時には正確に配置し調整するのであるが、これを作るとしたら、ギルドのマスターでも数ヶ月もかかったであろう。 しかし、現在では30セントで作られている。 世界は、非常に信頼性が高く、安価で複雑な装置の時代に到達しているのであるから、ここから何か出現するはずである。

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 記録は、科学にとって役に立つためには、たえず手を加えられ、蓄積され、そして何よりも調ベることができなければならない。 今日でも我々は、これまでのように、書き、写真を撮り、その後で印刷して記録を作っている。 そしてフィルムやレコード盤、さらに磁気ワイヤーの上にも記録している。 たとえ全く新しい記録手段が出現しなくても、こうした現行の記録手段は、確実に改善されて高性能化されつつある。
 確かに、写真技術の進歩は留まることを知らない。 高速撮影用の機材、自動化が進んだカメラ、小型カメラのアイデアをさらに広げる高感度微粒子化合物のすベてが出現しようとしている。 必然的とは言えないが、この傾向が進んでいった場合の、論理的な帰結を予測してみることにしよう。 未来のカメラ・マニアは、額の上にくるみより少し大きい物体を乗せている。 このカメラでは、3ミリ四方の大きさの写真が撮影され、これは後で映写されたり引き伸ばされるのであるが、ここには現在では実用化されていない10の要素の一つだけが関わっているにすぎない。 レンズ自体は焦点距離が短いために、肉眼で見える範囲ならどの距離にでも焦点を合わせることができる。 このくるみ大のカメラには今では少なくともあるカメラにはついている光電管が組み込まれている。 これは自動的に広い範囲の自然光に露出を合わせることができる。 この中には100コマ分のフィルムがあり、シャッターを操作し、フィルムを巻くスプリングは、フィルム・クリップが挿入された時に一度巻かれるだけである。 このカメラはカラー写真を撮ることができる。 立体写真技術の著しい進展が真近であるのでこのカメラは、2個の離れたガラスの目で記録する立体カメラとなるかもしれない。
 シャッターを切るコードは、簡単に指で押せるように袖まで届いている。 握れば写真を撮ることができる。 普通のメガネの一方のレンズの上部に、視界を妨げないように細い線で書かれた正方形の枠がついている。 対象がこの正方形の中に現われた時に、被写体としてとらえられる。 未来の科学者が、実験室内や戸外を動き回る時、記録に価するものを見るたびに、カチリという音を聞か ずに、シャッターを切ることができる。 ただこれは、本当に素晴しいことなのだろうかという疑問はある。 ただ一つ素晴しいのは、これを使えば、数多くの写真を撮ることができるという点である。
 乾式写真法は、実現できるだろうか。 これは、すでに二つの形をとって存在している。 ブラディが南北戦争の写真を撮った時、露光の際にはプレートを湿らせていなければならなかった。 今では、現像時には湿らせていなければならない。 将来は、おそらく全く湿らせずにすむであろう。 ジアゾ染料を塗布したフィルムがかなり前からあり、これであれば現像せずに写真ができる。 したがって、カメラを操作した途端に写真ができあがる。 アンモニア・ガスにさらして、未感光の染料を破壊すれば、写真は明るい所に持ち出してよく見ることができるようになる。 このプロセスには時間がかかるが、この時間を短縮する人物が現われるであろうし、今のところでは写真技術の研究者をわずらわせるような問題は全く存在しない。 カメラでスナップ写真を撮って、即座に眺められれば、多分大変都合がよいであろう。
 現在使われている別の方法も、時間がかかって効率がよくない。 ジアゾ染料を塗布した紙が、50年の間利用されてきた。 その感光紙では、ヨード化合物の中で生じる化学変化によって電気の接触のあった箇所が全部黒く変色する。 これらの紙は、紙の上を移動する針によって跡を付けることができるため、記録を作成するために用いられている。 針が動くにつれて針の電位が変わるのであれば、線にはその電位に従って濃淡が生じる。
 この仕組みは、すでにファクシミリ電送で使われている。 針は、紙の上にひと組の近接した線を次々に描いていく。 遠くにある発信局から電線を通して受信した電流の変化に従って動く際に、電位は変化する。 発信局では、光電管が画像を同様に走査し、このような電流の変化を作り出している。 どの地点でも、描き出される線の濃淡は、光電管によって感知された画像上にある点の濃淡と等しくなるようにされる。 こうして画像全体が処理された時に、複写物が受信先に出てくる。
 光電管は、風景写真をこのような方法で撮るのと同様に、景色そのものを撮影することができる。 この装置全体は、遠距離から画像を作ることができる着脱できる付加機能を備えたカメラで構成されている。これは処理速度が遅くて、画像は鮮明度が劣っているが、それでも乾式写真法の別のプロセスであって、画像は、撮影と同時に完成する。
 こうした方法は、いつまでも鮮明度が劣り、時間がかかり、失敗が多いものであると言いきるには勇気を要する。 今日のテレビ装置は、一秒間に16回、かなり良好な画像を送っており、これは上述の方法とは、二つの根本的な差異があるだけである。 一つは、記録が動く針ではなく動く電子ビームで作られることであり、そのため、電子ビームは非常に速く画像の一方から他方に動くことができる。 もう一つの違いは、一度変化したら元に戻らない化学処理を施した紙やフィルムではなく、電子が衝突すると瞬時に光を出すスクリーンを使用するというだけのことである。 静止画像ではなく動きのある画像が求められるため、テレビの場合このような速度が必要なのである。
 光を出すスクリーンの代用として化学処理を施したフィルムを使い、連続する画像ではなく一画像だけを送る装置を考えると、乾式写真用の高速カメラがその回答となる。 処理を施したフィルムは現行のものよりも遙かに速く反応する必要があるが、それは多分実現できるだろう。それより切実な問題と言えるのが、この構造ではフィルムを真空にした場所に密閉せざるをえないという障 害である。 なぜなら、電子ビームはそのような空気の希薄な環境でしか十分に作動しないのである。 電子が仕切りの表面を垂直に通り抜けることができ、周囲へ広がることが防止されるなら、電子ビームを仕切りの片側だけに当て、フィルムを他の側に密着させることによって、この問題を回避できる。 このような仕切りは、大ざっぱなものなら確実に作り上げることができるであろうし、仕切りがあってもほぽ普通に現像することができるであろう。
 乾式写真法と同様、マイクロ写真も依然として長い道のりを進まなければならない。 記録物の大きさを縮め、直接に見るのではなく映し出して調べるという基本構想には、とても無視しえない大きな可能性がある。 光学的映写と写真技術による縮小化を組み合わせることにより、学術用のマイクロフィルムでは既に結果が出ており、その可能性は非常に意義深いものとなっている。 今日では、マイクロフィルムは、20分の1に縮小でき、資料を調べるために拡大した時に、なお十分に明瞭である。 フィルムの粒状面の粗さ、光学システムの性能、使用される光源の強さによって、縮小サイズが定められるだろう。 これらはすべて、急速に改良されつつある。 将来は、百分の一のものが利用されると仮定してみよう。 さらに薄いフィルムが確実に使えるようになるだろうが、紙と同じ厚さのフィルムを考えることにする。 その条件でさえ、本に記載された通常の記録物の持つ容量とこのマイクロフィルム形態の複製との間には1万倍という差がある。 エンサイクロペディア・ブリタニカはマッチ箱の大きさにまで縮小できるであろう。 蔵書数10万冊の図書館は机の片隅に圧縮してしまうことができる。 活版印刷の発明以来、人類は雑誌、新聞、図書、小冊子、広告用のカバー、書簡といった形態で全部で10億冊の本に相当する量の記録を生産してきたとみなして、その全部を集めて、圧縮したら、トラック1台に積み込めるであろう。 当然ではあるが、単に圧縮するだけでは十分ではない。 つまり、記録を作成し蓄積するだけでなく、それを調べることもできるようにすることが必要であるが、この点に関しては後に考察することにしよう。 現代の図書館でさえ、調べることが全面的に行なわれているわけではない。 少数の人々によって、ただ、つまみ食いされているのである。
 しかしながら、コストの面から言えば、圧縮は重要である。 マイクロフィルム形態にしたブリタニカは、ニッケル玉一枚分の費用であり、1セント玉一枚でどこへでも送れる。 10万枚を印刷するのにどれはどかかるのだろうか。 大判の新聞を一枚コピーするために、1セントのほんの何分の一しかかからない。 縮小されてマイクロフィルムの形態をとっているブリタニカの全内容は, 8.5×11インチの紙に納まってしまうだろう。 将来の写真技術による複製方法を用いれば、一度入手したものは、資料の価格に加えて1セントもあればおそらく多数の複製ができあかってしまう。 オリジナルとなる原稿の準備はどうするのであろう。 それが次の論点である。

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 我々は、記録を作成するために、今は鉛筆を握り、タイプライターをたたいている。 そして推敲し修正する段階を経た後に、植字・印刷・配布という複雑な手順になる。 その手順のうちの最初の段階では、将来の著者は、手で書いたり、タイプライターを使うのをやめて、記録物に向って直接話しかけるようになるだろうか。 著者は、速記者やレコード盤に話しかけることによって、間接的にはそのようにしている。 しかし、もしも自分の話の内容を直接に活字記録にすることを望むなら、これを行なうための要素は、すべて現存している。 そのために必要なのは、既存の装置を上手に利用し、なおかつ話し方を改めることだけである。
 最近の世界博覧会にヴォダー(Voder)と呼ばれる機械が出品された。 女性がキーをたたくと、話をするものである。 その過程のどこにも、人間の声帯は加えられていない。 キーは、電子的に作られた幾種類かの振動を合わせて、それを拡声器で通すだけである。 ベル研究所ではこの機械とは逆の形のものがありヴォコーダー(Vocoder)と呼ばれている。 これは、拡声器がマイクに置き換えられて、音を拾い、話しかけると対応するキーが動くものである。 これは、後に述べるシステムの一要素となりうるものである。
 速記用タイプライターは、別の要素を持っている。 これは、会議で見かけることのある、何か落ち着かなくさせられる装置である。 一人の女性があまり熱意もない様子でキーを打ち、部屋を見渡して、時々不安そうに話し手に目をや る。 その装置からは話し手が語ったはずの内容の記録が、音声学的に単純化された記号で記録された細長い紙片として出てくる。 そのあと、この紙片は、普通のことばにタイプしなおされる。 初めのままでは、専門の人々にだけしか理解できないからである。 これらの二つの要素を合わせ、ヴォコーダーで速記用タイプライターを動かすようにしてみれば、話しかけると活字印刷を行なう機械になる。 実際には、現在の言語は、この種の機械化にあまり向いているとはいえない。 世界語の発明者が、ことばを伝達し記録するための技術に、より適したことばを作り出すことを思いつかなかったのは、不思議である。 とりわけ科学分野においてはこの問題が深刻化するであろう。 すなわち、科学分野における専門用語は、法律家にとっても理解しづらいものになっていく。
 さてこれで、研究所にいる未来の研究者を描いてみることができよう。 研究者は何も持たず、どこにいてもよい。 動き回り、観察しながら、写真を撮り、意見を声に出して言う。 この二つの記録を結びつけるため、その記録時間が自動的に記録される。 戸外に出ているのなら、ラジオを使って記録器と接続できる。 そして晩になれば、自分のノートを検討しながら、もう一度、記録に意見を書き入れる。 写真と同様、タイプで打った記録も、縮小版にしておくことができる。 調べる時には、これを拡大して映写すればよい。
 しかしながら、データや観察記録を収集し、既存の記録からいくつもの資料を抜き出し、新しい資料を共通の記録全体へ組み入れるには、さらに多くのことを行なう必要がある。 慎重に考えれば、機械によっては代用できない。 しかし基本的に創造的な思考と、反復的な性質をもつ思考とは、非常に異なっている。 後者に対しては、機械による強力な補助手段があり、また今後も期待できる。
 数字欄を足し合わせることは、反復的な思考の過程であり、昔から機械に任せておくことができた。 機械は、キーボードによって操作される場合もあるが、数字を読んで対応するキーを打つ際に、分類という思考が入り込んでいる。 しかし、これさえも除くこともできる。 機械は、光電管でタイプされた数字を読み、対応するキーを押す。 つまりタイプされた文字を判読する光電管、その結果の電流変化を分類する電子回路、その結果をみてキーを押すためにソレノイドを作動させるリレーの組合せである。
 この複雑な過程のすべては、数字を書くために我々が習ってきた方法が粗雑であったために必要なのである。 もし、数字をカード上の一群の点によって、単に位置で表わして記録するなら、自動判読の機構は比較的簡単になる。 事実、この点を穴としたものに、国勢調査用にかなり前にホレリスが作って、今ではあらゆる事務作業で用いられているパンチカード機が存在している。 複雑な事務作業の中には、こうした機械がなくては処理できなくなっているものがある。
 加算は演算の一つにすぎない。 計算の中には、減算、乗算、除算も含まれており、加算の中には、解答の一時的な保管、次の操作のために保管から取り出すこと、印刷して最終結果を記録することなどが含まれる。 こうした用途の機械は、現在では二種類あり、この一つは、キーボードの付いた会計機やこれに類似した機械で、データ入力は手作業であるが、操作順序に関しては、ほぼ自動的に制御されている。 もう一つは、パンチカード機械であり、個別の操作が一連の機械に委ねられており、カードは、次々に変換される。 どちらの形態もかなり便利であるが、複雑な計算に関しては、どちらもまだ揺籃期の段階である。 高速の電子的な演算装置は、物理学者が宇宙線の数を数えるのにこれが必要であると気づいた直後に出現している。 物理学者は、このために秒速10万回という速さで電子インパルスを数えることができる熱イオン管装置を即座に組み立てている。 未来の進歩した計算機は、電子的なものになり、現在の速度の百倍かそれ以上になるであろう。
 さらに、これらの機械は、現在市販されているものよりはるかに多用途のものとなり、多様な業務にたやすく取り入れられるであろう。 これらの機械は、制御用カードやフィルムで制御され、データを選び、機械に入っている指示に従ってデータを取り扱い、高速で複雑な計算を実行し、配布に適した形や計算を続行しやすい形で結果を記録する。 こうした機械には大きな需要がある。 こうした機械の一つは、部屋に満ちあふれた、キーボードの付いた簡単なパンチ機の前にいる若い女性から指示とデータを受け取り、何分かごとに計算結果の紙を出力していることになろう。 複雑な業務に従事する数百万の人々のこまごました仕事の中には、計算を要する数多くの仕事がある。

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 思考のうちで反復性の思考は、計算や統計処理に限られるわけではないが、定まった論理的な処理手続きに基づいて事実を結びつけ、記録する時にはいつも、思考の中の創造的な側面は、データの選択や使用する方法にのみに関わっているにすぎない。 その後の業務は、実際は繰り返しであり、機械に委ねるのに適したものである。 こうした方面では、演算以上のことはあまりなされていないが、経済性が向上すれば行なわれるようになろう。 業務上での必要性があり、明らかにこれを待ち望んでいる広大な市場があるので、製造方法が進歩しさえすれば大量生産できる計算機械が出現することは確実である。
 さらに高度な分析を行なう機械には、こうした状況が整ってはいない。 つまり、広大な市場などなかったし、今でも存在していない。 高度なデータ処理方法を用いるのは、ほんのわずかな人々である。 一方では、微分、関数それに積分方程式を解く機械もある。 潮の満ち引きを予測するハーモニック・シンセサイザーのような特殊な用途の機械が数多く存在している。 まず最初に科学者やごく少数の人々が手にするような機械は、もっと多くなるであろう。
 科学的推論が演算の論理的処理の側面にのみ向けられているなら、物理学的な世界の理解を深めていくことはできない。 確率を用いて、ポーカーを全体として理解しようとすることもありうる。 アラビア人は、平行に張った糸に玉を通したそろばんによって、他の地域の人々より何世紀も前に、位取りとゼロの概念を持つに至った。 そろばんは、利用価値の高い道具であり、そのために今でも用いられている。
 そろばんから現代のキーボードのついた計算機械に至るまでには、長い道のりがあった。 未来の演算機械に到達するにも、同様な長い道のりがあるにちがいない。 その新しい機械でさえ、科学者を自らが望む必要な地点まで連れていくことはなかろう。 もし高度な機械の利用者が、定まった規則に従った反復的な細かい変換作業以上のことに頭を使う余裕を持とうとするなら、高等数学を用いた骨の折れる細かな処理から解放されなければならない。 数学者は、数字を操作できる人間ではないし、実際に数字を扱えないのである。 数学者とは何よりもまず、極めて高度な記号論理を用いることに熟練し、とくに自分が用いる操作手順を選ぶ際に、直観的判断が下せる人々である。
 車を走らせる時、ボンネットの中の複雑な機構に任せてしまうのと同じように、その他のことはすべて、確信を持って自らの機構に任せてしまうようにしなければならない。 増大しつつある原子論の知識を、化学、冶金学、生物学における高度の問題の解決に向ける時にのみ、数学を実際に役立てることができる。 このために、科学者用の高度な数学を扱う機械が、数多く出現するであろう。 これらの中にはおそらく、現代文明の産物に対して極端に厳しい態度をとる批評家でさえ満足するほど、傑出したものがありうる。

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 しかしながら、科学者だけがデータを処理し論理的方法を用いて周囲の世界を観察する唯一の人間ではない。 もっとも、英国の労働界の指導者をナイトに叙するように、科学者は、論理的な人々全員を仲間として迎え入れることにより、体面を保とうとすることもありうる。 論理的な思考が用いられる時には、つまりその時代の思考が広く受け入れられる通例に従っている時にはいつでも、機械が登場するチャンスがある。 形式論理学は、かつて教師が学生の心を悩ませる時に手にする鋭利な道具であった。 形式論理学に従って前提を処理できる機械は、リレー回路を上手に使うだけで簡単に作ることができる。 ひと組の前提をそのような装置に入れてクランクを回すとすぐに、すべて論理の法則に従って次々に結論が打ち出されてくる。 しかも誤りは、キーボードの付いた加算機と同様に少ないであろう。
 論理は途方もなく難しいものになり、これを用いる場合に確実さがふえるものとなるようにすべきなのは言うまでもない。 高度な分析に用いる機械は、通常は方程式を解くものであった。 方程式変換機のようなアイデアが現われはじめているが、これにより厳密な高等論理学に従った方程式によって示される関係式は、整理しなおされるであろう。 数学者がこの関係式を非常に粗雑な方法によって表わしているので、進歩は阻害されている。 数学者たちは、急速に広まり、そしてまたほとんど整合性をもたない記号法を用いている。 最も論理的な分野でそういったことが行なわれているのは、奇妙である。
 新しい記号法は、数字の変換を位取り表記によって機械処理して変形するよりも明らかに優れているのは、確かである。 そして、日常的な出来事の中での論理の応用は、数学者の厳密な論理を越えている。 いつの日か我々は、現在レジで売上げを記録するくらいの自信をもって、機械でカチカチと音をたて て、議論を記録するだろう。 しかし、論理の機械は、流線形モデルの機械でさえ、レジのような形をしてはいないであろう。
 アイデアの処理やそれを記録に加えていくことについては、それでよいとしよう。 ここまでは、以前よりもうまくいっていないように思える。 というのも我々は、記録をどこまでも拡大していくことができるというのに、現時点の記録量でさえもほとんど調べることができないからである。 このことは、単なる科学研究を目的にしたデータの抽出の問題ではなく、さらに大きな問題で ある。 これは、既成の知識を受け継いで役立てる過程全体に関わっているからである。 知識を利用するために最初にとる行動は選択であり、その際に我々はすっかり戸惑ってしまっている。 条件にかなった建築様式で建てられている石壁の内側に、何百万もの立派な知見、そしてその基礎になる体験の報告がある。 しかし、学者が真剣に探しても一週間に一つだけしか入手することができないとしたら、それを得たところで、現状に追いついてはいけない。
 選択は、広義には、家具師の手中にある石斧のようなものである。 しかし狭義には、また他の部門においては、選択に関してすでに機械で行なわれていることもある。 ある工場の人事担当者は、選択用の機械に数千枚の労働者カードを入れ、決った手順に従ってあるコードに合わせ、短時間でトレントンに居住するスペイン語に堪能な従業員のリストを作成する。 このような装置でさえ、ひと組の指紋をファイル中にある500万件の指紋と照合するような時などには、時間がかかりすぎる。 この種の選択用の装置は、現在は毎分2、3百件のデータを参照するという速度であるが、やがてさらに高速のものになるだろう。 光電管やマイクロフィルムを使い、1秒当り1千件の速さで調べて、選び出したものの複製を印刷するであろう。
 しかしながら、これは単純な選択方法である。 要するに、個々の事物をひとまとめにして一つずつ順に調べ、ある特定の性質を持つものを拾い出すのであ る。 選択には別の形のものがあり、自動電話交換がその方法を最もよく説明している。 ダイヤルを回せば、機械は100万件もの電話番号の中から、たった一つの番号を選んで接続する。 数多い番号全部を、走査するのではない。 最初の数字に示されるクラスだけに注意を払い、次にその中で二番目の数字で示される二次的クラスへ、というように続けていく。 そうして、迅速にほとんど誤まりもなく、選択された番号へと到達する。 選択を行なうには, 2,3秒はかかる。 だがこの方法は、スピードを上げることが経済性にかなうならば、ずっと速度を高めていくことができる。 必要なら機械的に切り換える代わりに、熱イオン管を使って切り換え、極めて高速化することもできる。 そうすれば選択は、百分の1秒という速さで行なえるようになる。 電話のシステムをこのように改めるために費用をかけようとする者はいないが、一般的な概念として他のどこかに利用できる。
 大きなデパートにおけるありふれた問題を例にとってみよう。 バーゲン・セールが催されるたびに、多くの業務を行なう必要がある。 在庫目録を調べ、売り上げを販売員の手柄とし、販売価格を記帳し、そして一番大事なことだが、顧客に代金を請求する必要がある。 中央の記録装置は、この仕事の多くを効率よく行なうように開発されている。 販売係は、顧客の個人カードと自分のカード、それに商品からはずしたカードを台の上に置く。 どれもパンチカードになっている。 レバーを引くと、その開いている穴が判読され、中央の機械が必要な計算や登録を行ない、販売係が顧客に渡すレシートが打ち出されてくる。
 けれども、店には一万人の買物客がいるかもしれないし、全作業が完了する前に、誰かが正しいカードを選択し、中央にある機械に入れなければならない。 高速選択機は、すぐさま該当するカードだけを定位置に滑り込ませて、その後元に戻すことができる。 しかし、もう一つの問題が生じる。 機械が計算したものを加算できるように、誰かがカードでその合計を読まなくてはならない。 あるいはカード類は、前述のような乾式写真法によるものとなるかもしれない。 そうなれば、それまでの合計は、光電管で読み取られ、電子ビームで新しい合計が記録される。
 カードは、場所をとらないように小さくなるであろう。 これはたやすく動かせるものでなくてはならない。 遠くまで移動させる必要はないが、光電管や記録装置が設置されている場所までは届けられる必要がある。 こうしたデータの中に位置を決められている穴がある。 機械は月末にはそれらを高速で読み、通常の形式に従った請求書を打ち出すように作られている。 チューブ・セレクション(Tube Selection)は切り換え部分に機械部品が一つもないが、それによって正しいカードが使えるようにするのにほとんど時間をとられないで済む。 全作業が一秒で十分片付くであろう。 カード上の全記録を、視覚でとらえられる穴の代わりに鋼鉄のシート上に磁気のドットで行なうこともできる。 ポールセンが昔、磁気ワイヤに人の声を記録したやり方をまねるのである。 この方法には、簡潔で抹消しやすいという利点がある。 しかしながら写真技術を利用して、拡大した形で、さらに、テレビ用の装置と同じ方法によって、離れた所から映し出すようにすることもできる。
 この形式の高速選択機や、他の用途で使われている遠距離の映写装置を考慮してもよいだろう。 オペレーターの前にある100枚の紙のうちの1枚を、1秒か2秒で探しだせて、そこに何かを書き込めるようになることになれば、これが意味するものは大きそうである。 これを図書館で利用することもできそうであるが、それは別に述べる。 いずれにせよ、面白い組み合わせが可能になっている。 たとえば、音声によって制御できるタイプライターに関連して説明したような方法でマイクロフォンに話しかけ、そして選択を行なう。 ファイルを扱う一般事務員はおそらく、強い影響を受けることになろう。

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 しかし選択の問題の核心は、図書館において機械の導入が遅れていることや図書館が利用できるような装置を十分に開発できないということよりも、深いところにある。 我々が上手に記録を手に入れることができないのは、主として手作業による索引のシステムを使っているからである。 どのような種類のデータも蓄積される際にはアルファベット順や番号順に並べられており、情報は、サブクラスからサブクラスヘとたどっていって見つかるのである。 複製物がない限り、これは一ヵ所にだけにあることになっている。 これを突きとめるにはどの経路をとるのかということに関しては、規則が必要であるが、この規則は面倒なものである。 さらに、一つ見つかったなら、そのシステムから抜け出て、再び新しい道筋へと入り直さなければならない。
 人間の頭脳は、そのように働くのではない。 人間の頭脳は、連想によって動くのである。 一つのことを理解すると、連想によって与えられた次のものへと即座に飛び移る。 これは、脳細胞によって実現される複雑な網状の経路と一致している。 もちろん脳には別の性質もある。 頻繁にたどられることがない経路は薄れていってしまう傾向があり、記憶される内容は完全に永続的であるわけでなく、記憶は一時的である。 しかし、動く速さ、経路の複雑さ、知性が描くものの細部は、自然界にある他の何よりも素晴しい。
 この知的な過程を人工的に複製することを望めはしないが、このことから学びうることがあるのは確かである。 記録は、比較的永続性があるので、人間はこれを多少は改良している。 しかし、このアナロジーから引き出される最初のアイデアは、選択に関わるものである。 索引づけによる選択ではなく連想を用いた選択は、今後、機械化されるであろう。 こうしたものに頭脳が連想の軌道をたどる時のような速さと柔軟性を望むことはできないが、蓄積されたものから再現される事柄は、永続性があり、明瞭であることから言えば、人間の頭脳を決定的に打ち負かすことがありうるであろう。
 個人向けの未来の装置を考えてみよう。 これは、機械化された個人用ファイルと個人用図書館である。 名前が必要なら、「memex」とでも命名しておこう。 memexは、個人がすべての蔵書、記録、手紙を蓄積し、かなり速く柔軟にこれを調べることができるように機械化された装置である。 これは、個人の記憶に広がりを与える身近な補助装置である。
 この装置は、机一つからなっており、おそらくは離れた所から操作することもできるが、まず仕事場の備品の一つとなっている。 一番上に傾斜した半透明スクリーンがあり、読みやすいように資料が映し出される。 キーボード、それに一組のボタンとレバーがそろっている。 ほかの点では普通の机と変わりがない。
 片側には保存用資料が入っている。 量が嵩むという問題は、改良されたマイクロフィルムで解決される。 memexの内部のほんの僅かの部分が保存用に使われ、残りは機械である。 使用者が一日5,000ページ分を挿入するとしても、保管場所が満たされるには何百年もかかるので、浪費家になったつもりで自由に資料を入れても構わない。
 memexの内容の大部分は、挿入用のマイクロフィルムとして購入できる。 あらゆる種類の本、写真、雑誌の最新号・新聞がこのようにして入手され、取り入れられる。 商用の手紙も同様に扱われる。そして、直接に入力するための準備も整っている。 memexの上部には、透明な盤がある。 手書きのもの、写真、メモなどあらゆる種類のものがこの上に置かれる。 何か置いて、レバーを引き下げるとmemexフィルムのある区画の次の空いた場所に撮影される。 ここでは乾式写真法が用いられる。
 通常の索引方式によって記録を調べることも可能である。 ある本について調べたければ、キーボードでその本のコードを入力する。 そうすれば、即座に目の前の投影場所の一つに標題紙が映し出される。 頻繁に使われるコードは覚えやすくなっており、コード表を調べる必要はほとんどない。 しかし、必要な場合でも、キーの一つを一回押せばコード表が利用できるように映し出される。 さらに、補助レバーも備え付けられている。 レバーの一つを右に傾けると、順番に眺めて判読するのにちょうどよいスピードで各ページが映し出され、目の前の本を読み進んでいくことができる。 さらに右に傾ければ、一度に10ページずつめくることができ、もっと傾ければ、一度に100ページをめくることができる。 左に傾ければ、逆方向に同様な制御ができる。
 専用のボタンを押すと、即座に索引の第一ページ目になる。 このように自分の蔵書中のどのような本も、書架から取ってくるよりはるかに楽に、呼び出して調べることができる。 いくつかの投影場所があるために、別のものを呼び出す間、一つを他の投影場所に残しておくこともできる。あるタイプの乾式写真法の持つ利点を生かして、欄外に書き込んだり、コメントを付け加えることができる。あたかも目の前に紙の本があるかのように、今の鉄道の待合室にある電送機に使われている尖筆のようなものを用い、書込みやコメントを付け加えることができるようにすることもできる。

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 memexの投影法は現在の装置や機械より進んでいるが、それ以外のすべては昔からあったものである。 一方では、これは、連想索引法へ直接に結び付く手がかりを与えてくれる。 この連想索引法の基本的なアイデアは、一つの事項が決まれば、もう一つの事項を即座にまた自由に選択できるようにするという点にある。 これがmemexの本質である。 二つの事項を結びつける過程が重要である。
 利用者が経路を作る時には、これに名を与えて、キーボードで打ち込み、コード表にその名を挿入する。 目の前の、隣あった投影場所に、結びつける二つの事項がある。 各々の下部に、数多くのコード記入用の空欄があり、各事項のこれらの空欄の一つを指すようにポインタがセットされている。 利用者はキーの一つを押すと、これらの事項は、これから先は常に結び付けられることになる。 各々の事項のコード用の空欄には、そのコードの名が現われる。 目で見ることはできないが、コードの空欄にはまた、光電管で走査するための一群の点が書き込まれている。つまり各事項ごとに、こうした点の配置によって、他の事項の索引番号が示される。
 以後はいつでも、これらの事項の一つを映し出している時に、関係のあるコード欄のボタンを押すだけで、すぐ他の事項を呼び出すことができる。 一つの経路を形成するため、多数の事項がつながった時には、本のページをめくる際に用いられたレバーを傾けて、急いで、またゆっくりと、順番に調べ直すことができる。 これは、資料が広く分散している情報源から集められて、製本されて新しい本になるようなものである。 どのような事項でも、多数の経路に結び付けることができるので、本を上回っている。
 memexの持ち主が、弓と矢の起源と特性について関心を持っているとしよう。 特に、十字軍の戦闘では、なぜトルコの短弓が英国の長弓よりも優れていたのかを研究しているとする。 持ち主は、関連があると思われる本と論文をmemexに何十件も入れている。 まず百科事典を探し、概略を述べた関連項目を見つけ出して、これを映し出したままにしておく。 次に、歴史書で別の関連事項を見付けて、この二つを結びつける。 このようにして、数多くの事項の経路を作りあげていく。 時々、自分のコメントを書き込んで、これを中心的な経路に結びつけたり、特定の事項についての周辺的な経路に加えたりしていく。 弓には利用しうる材料の弾性という特性が大きく関わっていることが明らかになると、弾性に関する教科書と物理の定数表へと導く周辺的経路へと分岐する。 そして、自分の分析結果を記したページを挿入する。 こうして、自分が利用しうる資料の迷路の中に、自分が関心を持つものの経路を作りあげる。
 持ち主の経路が消滅することはない。 何年か後に、友人と話している際に話題が、人は生死に関わる場合でさえも新機軸の採用には抵抗を示すといった方向に向かったとする。 その場合、着弾距離で優位に立っているヨーロッパ人は、依然としてトルコの弓を採用することができないでいるという事実を例として持ち出すことになる。 彼は、実際に、このことについての経路を持っているからである。 すぐにコード表を呼び出すことができ、キーをいくつか押すと、経路の見出しが映し出される。 レバーは、関連のある事項ごとに停止させたり、脇道にはずれたりしながら、望むままに進ませることができる。 議論に関連した経路があったなら、複製機のスイッチを入れ、経路全体を複製し、その友人がmemexに挿入するために渡す。 そうすれば、さらに総合的な経路へと結ばれるのである。

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 全く新しい形の百科事典が登場する。 これは網状の連想経路が通っている既製品で, memexに入れて、その中で拡張していくことができるようになっている。 弁護士は、自分の全ての経験、それに友人や権威者の経験から連想によって関連づけられた意見や判断を手元に置いておける。 特許専門の弁理士は、依頼人が関心をもつすべての側面に通ずる、よく用いる経路のついた何百万もの刊行された特許を用意しておくことができる。 患者の病状に頭を悩ます医師は、今までの類似症例の調査から派生した経路に行きあたり、関連する解剖学や組織学の古典を参照しながら、類似症例に急いで目を通すことになる。 有機化合物の合成に取り組む研究者は、化合物の類似性をたどる経路と、これらの物理的、化学的反応への経路もついた全ての化学文献を実験室で手元に持つことになろう。
 ある民族の膨大な年代記と取り組んでいる歴史学者は、年代記の経路を重要事項のみで止まる経路と並べておき、いつでも、特定の時代の文明のあらゆる側面へと導いてくれる時代別の経路を追うことができるようになる。 経路開拓業という新しい職業ができ、こうした人々は、膨大な公共の記録の集積から有益な経路を作り出すという仕事を自ら進んで行なう。 この職の師から受け継がれるものは、人類の記録へ追加したものばかりでなく、弟子達にとり自分たちがよって立つ基盤となるものとなろう。
 こうして科学は、人間が自らの記録を作り上げ、蓄積し、調べる方法を与えることになろう。 ここで述べてきたように、未来のものを華々しく描く方が、既知のそして急速に発展中の方法や諸要素にしがみついているよりも、強い印象を与えることになろう。 確かにここでは、あらゆる種類の技術的問題を扱ってはいないが、一方、熱イオン管が出現した時のように、急激に技術的向上を早めるような、いつかは現われるかもしれないがまだ知られていない方法にも触れていない。 現在の傾向に執着して、想像図があまりにも平凡になってしまうことを避けるためには、こうした可能性を挙げておくのは適切なことであろう。 その際、予言ではなく、ただ示唆するべきである。 なぜなら、未知のものから引き出す予言が推測に推測を重ねたものでしかないのに対し、知られてい るものの延長線上から引き出された予言なら、実体があるからである。
 我々が記録材料を作り理解する手順はみな感覚の一つを通じて行なわれる。 すなわち、キーを押す際の触覚、話したり聞いたりする際の音声に対する感覚、読む際の視覚である。 いつの日かこれが、さらに直接的に行なわれることが可能にならないだろうか。 眼でものを見る時に、得られるすべての情報は、視神経という経路を通じて、電子振動という手段で脳へと伝えられることを、我々は承知している。 これはテレビ装置のケーブルで生ずる電気振動と、きわめて類似している。 こちらは、画像をとらえた光電管から放映用の無線送信機へと、画像を運ぶのである。 さらに、もしケーブルに適切な機器を近づければ、これに直接触る必要がないことを我々は知っている。 つまり電気的誘導によってこうした振動を取り出して、送信されている画像を見つけ出して再生することができるのである。 これは、通話内容を盗聴するためにタップをつないでいるのと同じであろう。
 タイピストの腕の神経を流れるインパルスは、指が正しいキーを打てるように、目や耳に届いた情報を、形を変え指まで伝えている。 このような流れを、情報が脳へと伝わる元の形で、あるいは、脳から手へと進む際に変形されたものとして、途中で捉えることはできないであろうか。
 我々はすでに、骨への伝導によって、耳の聞こえない人が聞くことができるように音を神経経路へと導いている。 最初に電気振動を機械的振動に変換するという現在の面倒な方法をとらずに、音を取り入れることができるようになるであろうか。 これは、体のメカニズムを即座に電気的な形へと変換しなおすということである。 今では、頭蓋骨に一組の電極をつけることによって、脳波計のグラフは、脳そのものの内部で起こっている電気的な現象に何か関係のあるインクとペンの軌跡を作り出している。 確かに、大脳のメカニズムの広範囲にわたる機能障害を示す他には、この記録は役に立たない。 しかし、このようなものが導いていく先の限界を、誰が定めることができるのであろうか。
 外界では、音でも見えたものでも、あらゆる形のものが、情報として伝達されるために、電気回路の中での電流変化に還元されている。 人体の中でも、全く同じ種類の処理が生じている。 ある電気的現象を変換するにあたり、常に機械的な動きを経なければならないのであろうか。 以上は一つの示唆であるが、現実や近未来にこだわっていては予言とはなりえない。
 薄れていく過去をもっとよく思いおこして、現在抱えている問題をより客観的に分析できるならば、多分、人間の精神は向上するであろう。 人間は、文明を非常に複雑に作り上げてしまったために、自らの試みを論理的帰結へと押し進めようとするなら、限られた記憶に無理を重ねて途中で動きがとれなくなることがないように、自分の記録を完全に機械で換えてしまう必要がある。 もし、すぐ手にとる必要のない雑多なものを忘れてもよく、さらに重要であるとわかった時には、もう一度見つけ出せる保証があるという特典が与えられるなら、より気楽に脇道にはずれることができるようになるであろう。
 科学を応用することによって、人間は設備の整った家を建て、そこで健康的な生活を営むことを学んだ。 また、科学は、大勢の人々が野蛮な武器を投げ合うようにもしてきた。 その上、科学は人間が大量の記録を取り込み、人類の経験にもとづいた知恵の中で成長することができるようにするかもしれない。 人間は真の幸福のために記録を生かすことを学ぶより先に、戦いの中で滅びてしまうかもしれない。 しかし、人間が必要とし、また求めているものに対して科学を応用する時には、中止せざるをえなかったり、結果に対し希望を失ったりするきわめて不運な段階があるものだ。